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日記

あなたがそれを失うとき、あなたはそれを得ている

 

形を作れない。

私は生まれてから今まで、あまりにも言葉で多くの事を考えすぎている。

じぶんが論理的思考が得意な研究者気質と言えるほど、頭が賢いわけではないことは自覚しているが、それにしても頭で考えすぎる。

ゼミの先生に指摘された。

「もういい。これ以上、言葉で考えるのはやめなさい。いくらでも出来てしまうでしょ。研究者なんて一生言葉で考えてるんだから。今やるべきなのは、今ある言葉の材料で何を作るかってことだよ。冷蔵庫の中にあるものだけで作るの。一番難しいよ。でもこれ以上は時間無いんだから」

私は泣きたくなってしまった。なぜなら今まで出した材料は単なる「知識の連想体」であって、論理的に一本にまとまったコンセプトには見えなかったからだ。そして最終的に出たコンセプトは、どうしようもないほど凡人的で私をうんざりさせた。こんなコンセプトからモノを作ったら、どうしようもないほどツマンナイ作品が出来てしまう。

そんなのは嫌だ、という思いと、それでも時間が無いから作るしかない、の板挟み。

でも先生はこう言った。

「それはあなたの中で一つに繋げられてないから。出発点から考えて、考えて考えて出てきた結論はみんな感じてる当たり前のことでも、最初の出発点はあなただけのものだから、それを拾い上げて、抽出して、組み合わせて形をつくるんだよ。最後に出てきたものから派生させたら、そりゃ自分なりのものは出来ないよ」

 

私は混乱しながらも納得し、どうにか「最初の出発点」に戻って、できるだけ単純にものを考えた。そうしたら、いとも簡単に形は決まった。

 

先生に話すと、「うん、いいんじゃない」とあっさり言った。

私が迷走しすぎたため、これ以上惑わせないように「実際はいいかどうか分からないがもうそれでやれ」という意味の「いいんじゃない」なのか、と疑いたくなるようなあっさり具合だったけれど、それはそれで否定できないので、あまり気にしないようにする。

あとは素材を検証して、小さいマケット(模型)を作って、本制作するだけだ。時間にして、1か月もない。しかも他の課題の締め切りだって来る。正直、すでに正気の沙汰ではないが、この2週間が無ければ今日この境地に辿り着けず、なんとなくダサいなあと思いながら作るしかなかったのだと思えば、遥かにマシな状況と言える。

本当は悠長に記録などつけている場合ではないけど、気持ちを整理するために必要だと思うので、致し方ない。

 

今日、形を決定するまでに、何が問題だったのか記しておこう。

 

「最初の出発点」は、アスファルトの上で粉々に砕けている銀杏の落ち葉の写真だ。

私は最初、ゼミのテーマ「日本」からその写真を連想し、「はかない」というイメージで写真を選んだ。けれどその写真が大問題で、私の構想は最終局面で大混乱に陥ることになる。

その写真は、あまりにも私の個人的で限定的な妄想が多分に含まれていた。その写真に写っているモチーフから連想したモノに囚われてしまい、「そのもの(イチョウアスファルト)」だけを見ることができなかった。

憚らず言うなら、「イチョウ」は「ICUで治療を受ける祖母」の暗喩、「アスファルト」は「ICUの人工呼吸器」だ。

この写真を撮ったころ、ちょうど一緒に暮らしていた祖母が入院し、容体が悪化し、ICUで人工呼吸器をつけていた。ハッキリ言って、もう回復の見込みはなく、祖母も「もういい」と発していた。日頃「延命はしてほしくない」と聞かされていた身からすれば、人工呼吸器をつけられ、無理やり呼吸をさせられている祖母の姿は衝撃的で、受け入れがたいものだった。

何もしなければ自然に命を落とし自然に還っていくものを、どうして人間の手で堰き止めるのか?

写真を撮ったころ、そういうことばかり考えていた。誰の為の延命なんだろう。誰の為のICUなのだろう、など。それを象徴するような写真でも絵でも、欲しくて仕方なかった。文章にするほど頭は整然としていなかったからだ。

そういう時、原宿の道であの写真を撮った。不謹慎かもしれないけど、粉々になってもなお土に還れず人に踏まれアスファルトの上で風雨にさらされるしかないイチョウが、祖母に対する印象に合うと思った。合うということにした。それしか身の回りになかったからだ。

 

そういういきさつで撮った写真だったから、コンセプトから最初に戻りなさい、と再三言われても「祖母はイチョウICUアスファルト」にしか戻ってくることができなかった。それが一番最初だと思っていたのだ。

それでも今日、改めて先生に「一番最初に、その写真を見たときのことを思い出して、『何を失ったのか』『何を得たのか』を考えればいい」と言われ、そうした。それが上に書いた、

〈私は混乱しながらも納得し、どうにか「最初の出発点」に戻って、できるだけ単純にものを考えた。そうしたら、いとも簡単に形は決まった。〉

の部分だ。

混乱していたのは、「イチョウは祖母でアスファルトICU」を最初だと思っていたからだ。それを取り払って、もっと単純に、コンセプト通りの事を考える。

私はこの写真から、「あなたがそれを失うとき、あなたはそれを得ている」というコンセプトを弾き出した。では私は何を失ったのか?何を得たのか?先生の問いのおかげで初めてそれを考えた。

イチョウアスファルトの上で粉々になっている。だから、喪われたのは生命と、形と、色と、自然だ。葉は枯れて地面に落ち、踏まれて粉々になり、アスファルトの灰色と一緒になる。それはもはや、自然の姿ではない。

では何を得たのか?私が得たのは、砕けた形状のまま保存されたイチョウと、アスファルトと同化した色と、それを観察したときの感情だ。はかなさ、さみしさ、そしてそれを忘れたくないという気持ちだ。

 

あまりにも連想に囚われすぎて、連想自体を「これが私なりの体験だ」と思ってしまったこと、

それを表ざたに出来ないまま、水面下で引っ張られ続けてしまったこと、

二つが今回の課題だった。連想は確かに自分なりの体験かもしれないが、ただ「感じたこと」それだけで自分なりの体験として生かせる。

もしかしたら私が思っているよりも連想は「一般常識」に囚われやすい減少で、個人的な感情は「みんなが思う事ではない」のかもしれない。

バナナといったら黄色、猿、果物、電話、マリカー、という連想されるイメージは案外型にはまっているものが多いが、バナナといったらおいしい、と答えるのはバナナをおいしいと思っている人だけだ。

 

書くことで改めて整理がついた。ゼミの先生が見たら「その前に手を動かしてモノ作りなさい!」と言うかもしれないけど、結局わたしが頼りにしてしまうのは言葉の方だな。