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日記

58年前の蕎麦を考えること

最近、初めて立ち食い蕎麦というものを体験した。新宿駅西口の地下にある飲食店街の蕎麦屋だ。

立ち食い蕎麦常連の祖父と一緒に食券を買い、入り口すぐの窓口に食券を渡す。超高速で稼働するロボットのようなおばあさんが、「そばかうどんか」と謎かけバトルのような質問をし、わたしは慌てて「そば」と答える。言ってすぐに、自分の食券が「大判きつね」であることを思い出し、きつねと言えばうどんであるのに、間違えた、と反省する。

窓の向こうでは人間がシステムのように次々にうどんや蕎麦を生産していく。

大判きつね蕎麦はあっという間に手元に届いた。時速にして、おそらくマクドナルドより速いのではないか。ハンバーガーより蕎麦の方が速いというのは、驚くべきことである。

お盆を持って、先に蕎麦を受け取っていた祖父の後を追いかける。さほど広くない店内には結構な量の椅子がある。比で言うと、椅子:立ちが8:2である。これはもうもはや座り食い蕎麦なのでは?

音速で届いた蕎麦は、結構おいしかった。大判きつねの油揚げが本当にでかく、濃い甘めで好みだった。うどんでなく蕎麦にしてしまったが、案外だいじょうぶだった。

 

我が家では立ち食い蕎麦といえば祖父である。

 

祖父が一人で新宿や恵比寿や有楽町や目黒に行ったとき、「お昼に何を食べた?」と聞くと9割くらいで「立ち食い蕎麦!」と答えが返ってくる。一緒に出掛ける時、「出先で何食べよう?」と聞くとまず「富士そばでいい」と言う。次に「A5ランクの最高級ステーキ」と言う。

祖父と立ち食い蕎麦は切っても切れないのである。

そんな祖父が初めて立ち食い蕎麦と出会ったのは、ちょうど私と同い年の頃だ。

 

昭和35年頃、大学一年か二年だった祖父は、同級生の帰省に同行して北海道を目指した。広島の田舎に住んでいた祖父はまず、夜行列車「あさかぜ」に乗って東京へ向かう。

今と違って、石炭で動く蒸気機関車での旅で、しかも夜行列車といえど寝台があるわけでは無かった。ボックス席すらぎゅうぎゅう詰めの中、エアコンもない58年前の車内である。トンネルをくぐる度に窓を閉めて、煤が車内に入らないようにするが、祖父が上野で下車したとき、顔も体も、靴下の中まで真っ黒になっていた。

そこから更に、祖父は上野から青森まで汽車を乗り継ぎ、青函連絡船に乗り、函館から友人の実家まで列車に乗る。その鉄道旅行は48時間に及んだ。

その旅の途中、汽車が水の補充や石炭の補充で停車すると、祖父は友達と一緒に大きな駅に降り、そこで立ち食い蕎麦を食べたという。

蕎麦が1杯30円、月給は1万円の時代だ。

大学生のお金なし旅なので、祖父と友達は立ち食い蕎麦を食べまくった。あらゆる駅の蕎麦を食べ、また汽車に乗る。また蕎麦を食べる。また汽車に乗る……。

それ以来、祖父は立ち食い蕎麦に信頼を寄せるようになったのかもしれない。

「パッと出てきて、サッと食べて、スッと出れるのが良いんだ」

祖父はいつもそう言っている。

 

今日の昼、また祖父と一緒に二回目の立ち食い蕎麦を食べた。今度は大判きつねをちゃんとうどんで食べるために、窓口で食券を出し、ロボットのような超高速稼働おばあちゃんに「冷やしうどん」と言った。若干食い気味だった気がする。マクドナルドより速いうどんは、しかしやや遅めだった。超高速稼働おばあちゃんは言った。「うどん冷やしてるから待ってください」

わたしは、その人が「そば・うどん」以外の言葉を喋っているのを、初めて聞いた。