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日記

優等生でいるということ

 

卒制がひと段落つき、これからモリモリ直し作業が入るところだけど、

担任の先生と長く話す機会があり、

気付いたことがあったので書き残しておこうと思う。

 

 

私は今まで、どの分野にいても「優等生」だった。

自慢ですが、成績5段階評価で3以下をとったことはほとんど無かったし、

先生とコミュニケーションをとり、

遅刻もせず、提出物の遅れもほとんど無く、

徹夜をしなくても締め切りを守れたし、

後輩に紹介される優秀作品に選ばれることも度々あった。

 

そこで私は最終学年に上がるにあたり、

2つあるゼミのうち、厳しいとされる方を選んだ。

特にそのゼミに入ることが目標だったとか、ゼミマスターの先生を知っていたからとかではなく、ただ「厳しいほう」だから選んだ。

私はどの分野でも優等生だった。こつこつ、真面目にやっていれば、良い評価は必ずもらえる。だから、厳しいゼミだろうと、今まで通り真面目にやっていれば課題をこなせると思ったのだ。

 

結論から言うと、まったくもって挫折の毎日だったと思う。

「こういうことをやりたい」と提案すると、

「そもそも何でそれなの?それを、どういう表現にするの?」と問われる。

何かをやれば何かを批判される。

自分が一生懸命、深く深く考えて出した長い長いコンセプトを、「何を言っているのかよくわからない」と一蹴される。

覚悟していたことだったが、卒業制作の制作を始めなければならないと言われている卒展3ヵ月前になってもまだ「作るもの」すら決まっていなかった時、本気で脳内に「留年」の文字が浮かんだ。

 

ゼミマスターは、べつに学生を虐めようと思って批判していたわけではない。

ただ、純粋に「あなたは何を伝えるべきだと思っているのか」と問い続けていただけだが、これが優等生の私にとって致命的な問いかけだったのだと思う。

 

私は今まで、どの分野にいても優等生だった。

先生とコミュニケーションをとり、

遅刻もせず、提出物の遅れもほとんど無く、

徹夜をしなくても締め切りを守れたし、

後輩に紹介される優秀作品に選ばれることも度々あった。

 

だがそれは、「先生が作ってほしいもの」を作っていたからにすぎない。

 

たとえば、コートのコレクションを作れという課題が出る。

私は提示された参考作品を見て、どのクオリティのデザイン画が出ればいいのか知る。

先生とコミュニケーションをとり、先生がどんなことを学生に求めているのか知る。

毎日、遅れずに学校に来て、毎回、締め切りに間に合うように絵を描く。

先生が求めているクオリティのプレゼンを目指し、

どうしてもの場合は、良い評価を既に得ている教科から妥協し、

平均値として「いい評価」が出るように調整していく。

 

もちろん、優等生でいることは何も悪い事ではない。

先生の望むものを形として出し、良い評価をもらう。それだって立派な能力の一つだ。

 

だが、ゼミの先生は、「優等生」能力に何の価値も見出していなかった。

 

そもそも、先生は学生に何も求めていない。

学生が何を作ろうが、何を表現しようが、基本的にどうでもいいのだ。

今まで「相手が求めているもの」を察知して課題をこなしていた私は、大変混乱し、

期待されていないという状況にとても傷付いた。

期待されていないということは、私が無能であるということだからと思い込んでいた。

私に能力が無いから、先生は私が何を作ろうとどうでもよいのだ、と思った。

生まれて初めて、自分は本気で無能で、何かを作るということに向いていない、と思った。

卒展2か月前になっても相変わらず形はできず、

本気で退学するかもしれない、と思ったりもした。

また、このゼミの選択は間違いだったのだから、何を作ったところで無能を露呈するだけで、適当にごまかして作ってギリギリ卒業させてくれないかなと思ってもいた。

 

しかし、いつだったか、私は勘違いをしていたことに気づいた。

先生は、私が無能だから期待していないのでなく、というかそもそも「期待する/しない」のベクトルの話ではなく、

私自身が、人に何を伝えたいと思っているのかをずっと問題にしていたのだ。

 

自分が他人に何を伝えたいのか、

自分が何を考えるべきなのか、

自分がいいと思うものは何なのか、

自分が悪いと思うものは何なのか。

そこに、他人である先生が求めている作品像など、最初から無い。

最も重要なのは優等生として他人が求めているものを作ることではなく、

自分が、自分だけの視点や人生を通して他人に伝えるべきテーマを発見することだった。

私は初めて、自分がいかに他人の求めているものばかり気にしていたか気づいた。

 

優等生でいるということは、悪い事ではないと思う。

今まで私が生きていた社会では、少なくとも「優等生」でいればよかった。

普通科だろうとデザイン科だろうと、そこに大差はない。上の人から提示された課題に対して、上の人から求められているクオリティを提示すればいい。

しかし、優等生は表現者、創作者にはなれないのだ。

 

 

優等生の私にとって、

何も期待されず、何も求められず、

ただ自分の責任で自分の作品を作っていくということは、人生で一番難しい試練だったと思う。

けれど、期待されていない無能感や

誰にも何も求められない孤独感といった、

今までの自分から脱却するための苦痛を乗り越えた先に、

自分が本当に伝えたいと思っている、自分だけのメッセージやテーマを見つけ、

拙いなりにもそれを創作し、

誰かに見てもらえる作品を作り上げられた、未熟なりにも「表現者」になれたという実績は、間違いなく私のなかで一生の財産になると思う。